ういんず亭について
さまざまな「出逢い」は、私たちの大切な財産です。
それは、それぞれの方々の仕事や生きざま、想いこそが、「無」から「有」を生むエナジーそのものだからです。
ういんず亭は、そうした想いを綴っていただくみなさんのページです。
海を渡るタカ、アフリカに舞う
2011年4月26日
毎年、必ず海外旅行に出かけることにしています。感性を磨くためです。ソフトを仕事にする者は、感性を磨きに磨いて、売り物にするくらいにピカピカに仕立てる必要があります。たとえ仕事といえども、日常に浸りきれば感性は鈍ります。新たな経験に心機が漲れば感性が磨かれると、50歳を過ぎてなお新たな遊びを始めます。また、新しい国に出かけます。かく御託を並べて、遊びに行きます。
何度かに分けて、2005年9月のケニア、タンザニアへの旅行を紹介します。前年に、若い友人がケニアに赴任し、その伝手での旅行でした。前半はキリマンジャロ登山。後半は、サファリ、ショーンポールロッジへのエコツアー、ナイロビやキスムでの日本のNPO活動の見学。3週間の旅行でした。
キリマンジャロ登山の話しはまたの機会にして、登山を終えてキリマンジャロ国際空港への帰路でのこと。送ってくれたドライバーが言います。
“かなり前にバスの事故で乗客が亡くなった。多分、日本人だと思うが、毎年、その日には遺族がおまいりしにきている。日本では、そういう習慣なのか。”
死者をそんなにも長い間、悼みつづけるというのを不思議がっている。一方で、亡くなった人を大切にすることに敬服しているようで、複雑な表情だ。
街道沿いにある慰霊碑の前で、車を停めてもらう。
1985年11月21日。20年前だ。6人の青年海外協力隊員がバス事故で亡くなっていた。慰霊の石碑は、道路を越えて、どこまでも広がるタンザニアの草原、青い空、白い雲を眺めていました。
われわれ日本人がタンザニアで暖かく迎えられるのは、この亡くなった青年たちと、彼らを20年にわたり悼みつづけてきた遺族たちのお陰なのでした。
ドライバーに、“たしかに日本人です。教えてくれて、ありがとう。”と礼を言うと、彼もとても満足そうでした。(海を渡るタカ 記)
(亭主余談)
彼「海を渡るタカ」から原稿が届いた。一読してこの原稿をこの時期に掲載することに正直躊躇した。
彼、かつて京大でその名を知らしめた学生運動の闘士。理論家で人情肌。1990年の大阪花博の仕事で初めて出会った。彼は書かれているケニア、タンザニアへの旅の前年、癌により声を失った。術後大阪の病院に見舞った時、私は彼に「次に会うときは声を出せ」と、云い放った。私は帰りの新幹線で涙した。彼はその時の約束をものの見事に守った。会うたびに進歩した声を聴かせた。その翌年彼はアフリカの主峰キリマンジャロを登攀した。
今、世界中の人々が日本に祈りとそして手を差し伸べてくれている。そこには、ここに書かれているようなエピソードが根底にあるのかもしれない。そう思った時、彼がこの原稿を送ってきた念いを感じた。
青年海外協力隊員慰霊碑(タンザニア)
タンザニアの草原、青い空、白い雲
京都通信
2011年2月10日
京の節分さんは通年、身を切る寒さの雪景色のなかに迎えます。(ちなみに京都弁は、お揚げさん、とか猫が遊んだはる、とかやたらと人間以外にも敬語が多い)
足もとから冷えのぼる寒さを我慢しながら、各寺の鬼やらいや屋台・花街の「お化け(化装)」見物に繰り出すのですが、今年は先日までの酷寒がウソのような暖かさのなか。どんど焼きの熱気もいまひとつ盛りあがりに欠けました。雪のあとの「立春」であればこそ、幕がストンと落ちたように春の明るさが嬉しいものなのに、一歩先駆けられては拍子抜けです。
ともあれ暦は正直で、空の青さも,夕やみの降り来る時の遅さも、確実に春の歩みは進んでいます。鴨川や高野川のユリカモメとカモは姿を消し、庭のユズの樹にはメジロの訪れが多くなりました。梅の花が開いて、若いウグイスが「ケキョ、ケ、ケキョ」とまだ下手な歌を聴かせてくれる日がやってきます。このまま春本番となるのか、咲きかけた桜をおびやかす春のドカ雪が訪れるのかわかりませんが、365日どこかで祭礼があると言われる京都の、祭三昧の春の日は、もうすぐです。
素敵な展覧会案内をひとつ。神奈川県立金沢文庫でただいま「運慶」展やってます(3月6日まで)。運慶研究の第一人者・山本勉先生と金沢文庫の瀬谷貴之先生が組んでの金沢文庫80周年記念展、真作の少ない天才運慶の名作が7点も揃う、前代未聞の展観です。
それぞれの狭いお堂で拝観した時も「さすが」の想いだったけれど、ライトを当てて左右、あるいは後身まで、一堂に間近に見られる空間はまさに至福の時でした。いずれを見ても完璧なフォルムと、小品でも圧倒する存在感に、思わずオデコをガラスにくっつけてしまいました。
いつもは静かな文庫に人が詰め掛けています。少しまるいイメージのにこにことチャーミングな先生がいらしたら、それは瀬谷先生。先生に限らず文庫の方々は皆さんとっても親切丁寧で、質問に応えてくださいます。ぜひお出かけください。
お帰りの前に売店で別冊太陽「運慶」も手にとって見てくださいね。(春ボケ気味の、る。より)
(亭主余談)
京都から春の便りを伝えてくれた自称「春ボケ気味の、る」さん。日本美術に造詣深く、最後にちょっとCMが入ってますが、美術雑誌の編集者です。「親鸞」「法然」「運慶」と立て続けに出している才媛「京女」です。(本当は丹後の出なので、純粋京女ではないとは本人の弁)。厳しい出版業界の中で頑張っているひとです。次は応挙の高弟「芦雪」とか・・・期待してます。
神奈川県立金沢文庫
「特別展 運慶 中世密教と鎌倉幕府」
3月6日(日)まで
ういんず亭/亭主 一平
2010年12月28日
事務所を設立して四半世紀を超えた。時代の風を読みながら(流されながら?)新しいモノを早め早めに取り入れてきた私たちだが、サイトの開設には二の足を踏んできた。サイトという情報源が一方的に解釈され、歩いてゆくことに一種の怖さを感じていた。同時に情報を発信する私たちに、都合よく独りよがりな発信をしてしまう可能性が否定できない。
広告代理店から、クライアントからと、多彩な仕事にプロジェクトにかかわってきた私たちの仕事の原点は企画である。イマジネーションの世界からクリエーションの世界への過程の中で育っていく企画という「夢」が、そのプロセスを示すことなく結果のみが、一行の「解説文」一枚の「写真」としてだけで語られ、世の中に出ることに違和感があった。いや、今でもその感を持っている。
結果がすべてといわれる風潮の中で、結果にたどり着くプロセスを大事にしたい。そのプロセスをサイトで表現することはなかなか難しい。ましてや行間までは殆ど不可能に近い。しかしその行間に込められた想いが企画には大事なのだと思う。逆にそのプロセスが表現できず「あれもやりました」「これもやりました」と云うのでは、私たちのサイトとしては殆ど意味がない。それがサイトの開設に躊躇してきた最大の要因だ。
遅ればせながらサイトを開設するにあたり、このサロン(ういんず亭)を併設した。無味乾燥なサイトに暖かな血を通わせたい。そのために、私たちが生業としている企画、そして制作という作業の中に詰まったエナジー、その豊潤なエナジーを提供して私たちの仕事に、直接に間接に影響を与えてくれる方々に、このサロンに遊びに来ていただきたいと願っている。私たちが生み出す企画、制作プロセスのバックボーンを知っていただくために。(ういんず亭・亭主 一平)
余談 一平Who?
かつて、この世界の仕事を学生時代に始めた時、その時のボスがペンネームをくれた。酔った勢いで付けられた名が「尾張一平」(曰く因縁は分からないが、一説によるとボスの名古屋での行きつけの飲み屋の名前とか…。真意のほどは不明だが…、それにしても色気もなにも無い。まあそんなものだろうと思う。)私はこのミスマッチ(と本人は思っている)な“一平”と云う名を気に入っている
晩秋の愛岐トンネル群を歩く。
愛知県の高蔵寺駅と岐阜県の多治見駅の間に残る、旧国鉄廃線跡の13のトンネル群。廃線からまもなく半世紀を迎える今も、人とモノ、文化を運んだ誇り高き往時の佇まいが、東濃の自然と相和し、時代を優しく語り継ぐ。